
村上龍のエッセイ集で、ダメな女の定義を彼なりの見解で述べられている書籍。
女性に対する考え方、上手な女性との付き合い方というのを、改めて考えさせられた一冊。少々男視点の部分で書かれている印象があるので、女性からすると勝手ばかり言って。なんて感じるかもしれない。
ま、客観的に書かれている側面もあり、自分自身参考になった。
男女の付き合い方として。
さて、書籍の中で印象に残ったキーセンテンスは「男をコロコロ変える女」「合コンに参加する男女」「仲間と友達のちがい」だった。
男をコロコロ変える女。
もちろん男にも言えることだがここは「女性」にしぼってみた。
ここから連想することは「浮気」「軽い」などのネガティブワードが連想される。
もちろん、このことについて賛否両論あると思うが、著者はこの「男をコロコロかえる」ことにおける、その女性の深層心理を分かりやすく述べ、結論づけてそれではダメなんじゃないかと見解を示していた。
人生とはやり直しがきかない連続の中を生きていること。その過程でかけがえのない人や事柄に出会う。そういうふうにして出会った、モノや人には替わりはいない。あれがダメだから、じゃあこれにしようという替わりのものがなく、替わりがないから取り返しがつかない。
つまり、分からないというタイプの人はすぐに替わりを見つける。替わりを見つけるということは取り返しがつかない日常を実感出来ていないということだ。
そこで、先に出た「浮気」や「軽い」などのキーワードに紐付けられる事柄はさらに実感できていないということなんだろう。
合コンに参加する男女。
著者は合コンに参加するような男女に魅力的な相手なんてみつからないと述べている。
前後の脈絡を端折って、ピックアップして書いているのですこし書籍の内容から歪んで表されているかもしれないが考えを述べてみる。
合コンというのは、少数の友人が別の友人を引きあわせ、ほぼ見ず知らずの男女が飲食に勤しむ機会のことだろう。私も32年も生きているので、合コンに参加をしたことはあるが、肌に合わないので2,3回程度だ。多いのか少ないのかはわからない。
何が肌に合わないかというと、なんといってもコミュニケーション。
共通項が何も見えない状態で繰り広げられる会話に大変苛まれる。
出会いの場というのはいくらでもある。スポーツジム、料理教室、セミナー。
挙げれば無数にあると思う。
ただ、出会いを目的としたものではないので相手を見つける(見つかる)ことには、それなりのプロセスが必要だ。時間やコストも必要。
でも考えて見れば、かけがえのない人やモノに出会うためには、それなりのプロセスや時間を要するのは必然だ。そこには尊敬や信頼が人と人の間に介在しなければ「かけがえのない人」に発展しないだろう。
だから、合コンで「◯◯ちゃん気に入ったよ」なんて本来ありえないことなんだろう。
それはあくまで性的な対象として見ているか、もしくは尊敬や信頼の介在した男女の付き合い方を知らないか、どちらかだろう。
先日知人が話していた。
「二、三度あっただけで、好きだと相手からいわれると、せっかく興味を持っていたのに一気に萎える」
たしかに、よくわかる。
友達と仲間の違い。
友達とはお互い緊張感を持ち、言葉を交わし尊敬が存在する。だから一緒にいると大変だ。
以下
「だから、友達の欠点は、付き合うのに神経を使うことだ。お互いを認め合うための努力が必要になる。この友達を失いたくないと思えば、軽蔑されないように、できれば尊敬され、相手に喜ばれる存在であるために努力しなければいけないのだ」
一方
「仲間は努力はいらない。仲間モードに自分を合わせるだけで、一体感を楽しめる。自分ひとりでは友達を作れない人間が仲間内で群れる」
「ダメな女とは、仲間を欲しがる女である」
「ダメな女とは、仲間を欲しがる女である」
そして、その仲間の中で傷を癒しあい男女の場合に肉体関係が存在したりする。
残念な感じだ。
結局、男女の付き合い方に時代の変遷というのは当然あるだろう。しかし、お互いが尊敬し合い生きていく中でかならず守らないといけないことというのは変遷を経ても人間関係の根底にあるはず。
それを維持し守らなければ、関係がうまくいくはずもない。
ダメな女とダメな男。自分はまだまだダメ男かな。
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