2010年12月5日日曜日

プライベート


プライベートでいろいろあり、ひどく落ち込むことあり。
そんなときに歌手にカラオケで歌ってもらい、それからは毎日聞く日々。
You Raise Me Up』
この曲は荒川静香が金メダルをとったトリノオリンピックのエキシビジョンで使われた曲として知られているのかな。

知ってか知らずか歌っていただいたこの曲の歌詞に、ただただ心が励まされた。

2010年7月30日金曜日

ダメな女


村上龍のエッセイ集で、ダメな女の定義を彼なりの見解で述べられている書籍。

女性に対する考え方、上手な女性との付き合い方というのを、改めて考えさせられた一冊。少々男視点の部分で書かれている印象があるので、女性からすると勝手ばかり言って。なんて感じるかもしれない。

ま、客観的に書かれている側面もあり、自分自身参考になった。

男女の付き合い方として。


さて、書籍の中で印象に残ったキーセンテンスは「男をコロコロ変える女」「合コンに参加する男女」「仲間と友達のちがい」だった。

男をコロコロ変える女。
もちろん男にも言えることだがここは「女性」にしぼってみた。
ここから連想することは「浮気」「軽い」などのネガティブワードが連想される。
もちろん、このことについて賛否両論あると思うが、著者はこの「男をコロコロかえる」ことにおける、その女性の深層心理を分かりやすく述べ、結論づけてそれではダメなんじゃないかと見解を示していた。

人生とはやり直しがきかない連続の中を生きていること。その過程でかけがえのない人や事柄に出会う。そういうふうにして出会った、モノや人には替わりはいない。あれがダメだから、じゃあこれにしようという替わりのものがなく、替わりがないから取り返しがつかない。
つまり、分からないというタイプの人はすぐに替わりを見つける。替わりを見つけるということは取り返しがつかない日常を実感出来ていないということだ。

そこで、先に出た「浮気」や「軽い」などのキーワードに紐付けられる事柄はさらに実感できていないということなんだろう。


合コンに参加する男女。
著者は合コンに参加するような男女に魅力的な相手なんてみつからないと述べている。
前後の脈絡を端折って、ピックアップして書いているのですこし書籍の内容から歪んで表されているかもしれないが考えを述べてみる。

合コンというのは、少数の友人が別の友人を引きあわせ、ほぼ見ず知らずの男女が飲食に勤しむ機会のことだろう。私も32年も生きているので、合コンに参加をしたことはあるが、肌に合わないので2,3回程度だ。多いのか少ないのかはわからない。
何が肌に合わないかというと、なんといってもコミュニケーション。
共通項が何も見えない状態で繰り広げられる会話に大変苛まれる。

出会いの場というのはいくらでもある。スポーツジム、料理教室、セミナー。
挙げれば無数にあると思う。
ただ、出会いを目的としたものではないので相手を見つける(見つかる)ことには、それなりのプロセスが必要だ。時間やコストも必要。
でも考えて見れば、かけがえのない人やモノに出会うためには、それなりのプロセスや時間を要するのは必然だ。そこには尊敬や信頼が人と人の間に介在しなければ「かけがえのない人」に発展しないだろう。

だから、合コンで「◯◯ちゃん気に入ったよ」なんて本来ありえないことなんだろう。
それはあくまで性的な対象として見ているか、もしくは尊敬や信頼の介在した男女の付き合い方を知らないか、どちらかだろう。

先日知人が話していた。
「二、三度あっただけで、好きだと相手からいわれると、せっかく興味を持っていたのに一気に萎える」
たしかに、よくわかる。


友達と仲間の違い。
友達とはお互い緊張感を持ち、言葉を交わし尊敬が存在する。だから一緒にいると大変だ。
以下
「だから、友達の欠点は、付き合うのに神経を使うことだ。お互いを認め合うための努力が必要になる。この友達を失いたくないと思えば、軽蔑されないように、できれば尊敬され、相手に喜ばれる存在であるために努力しなければいけないのだ」
一方
「仲間は努力はいらない。仲間モードに自分を合わせるだけで、一体感を楽しめる。自分ひとりでは友達を作れない人間が仲間内で群れる」
「ダメな女とは、仲間を欲しがる女である」
そして、その仲間の中で傷を癒しあい男女の場合に肉体関係が存在したりする。
残念な感じだ。



結局、男女の付き合い方に時代の変遷というのは当然あるだろう。しかし、お互いが尊敬し合い生きていく中でかならず守らないといけないことというのは変遷を経ても人間関係の根底にあるはず。
それを維持し守らなければ、関係がうまくいくはずもない。

ダメな女とダメな男。自分はまだまだダメ男かな。

2010年7月11日日曜日

若い世代が国を変えなければ




今日は参院選挙投票日。
皆様は投票に行かれたでしょうか?

これからの日本の将来について国民ひとりひとりが考え、今夜は家庭内でそれぞれの支持政党の政策について議論を交わすことが出来ればいいなと思う。

さてこの国政選挙。

20歳代と40歳代以上とは投票率にかなりの隔たりがある。
つまり、20歳代の政治に対する関心が40歳代以上と比べて低いということだ。

ちなみに日経新聞の社説によると20歳代の投票率は過去三回30%台、40歳代以上は60%超となっている。


話は変わり2005年度版の経済財政白書では税金、社会保険を負担する代わりに年金医療などの公的サービスを受けている金額を差し引きすると、60歳以上は4875万の黒字、20歳代は1660万の赤字になるという。


どうやら民主党は参院議席を改選前より落とすことになりそうだが、混沌としたこの日本の政治をさらに悪い状況にすることなく、民意を生かした政治運営を与党・野党に期待したい。

だけど、自分も含めた若い世代。
「世界は君たちのものであるが、また私たちのものでもある。しかし結局は君たちのものである。」(毛沢東)
もっと、自分たち若い世代が政治に参加して日本のヴィジョンを考え直さないといけないのではないだろうか?

2010年7月8日木曜日

7月の読書

シリーズ化することにします。

毎月かならず読むようにしている3冊の書籍。

そんな私の7月の書籍をご紹介。

今月のコンセプトはReaderで購読しているブログのなかで、著者が紹介している書籍をセレクト。

まずは一冊目
「売国者たちの末路」
副島隆彦氏と植草一秀氏の対面書物。

植草氏は皆様ご存知の通り、痴漢で実刑判決を受けたあの植草教授である。
副島氏はリーマンショックを予測していたといわれる評論家。
植草氏のブログ「植草一秀の知られざる事実」は日本をダメにする「政・官・業・外・電」の悪徳ペンタゴンを日本の政治運営の問題の根底とした、経済的現行政権に対する批判ブログで紹介されている。


そして二冊目
一瞬の光
白石一文 著

私の友人(もう友人と呼んでいいだろう)I氏のブログ「ぴっ」で紹介されている。
書籍のレビューを定期的に書かれており、そこに取り上げられ星四つ(五つ中)の書籍。


そして三冊目
「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」
安部芳裕 著

これもI氏の紹介書籍。
彼のレビューを見たら単純に購入したくなった。


来月、三冊のレビューも投稿予定。

2010年7月7日水曜日

林の中の像のように

「林の中の像のように」
これは、ブッダの言葉「孤独に歩め悪をなさず求めるところは少なく林の中の象のように」の一部。

解釈すると、「思慮深く聡明なパートナーが現れたのであれば迷わず一緒に伴侶として連れ添い歩いて行きなさい、もしもそのような伴侶が見つからないのであれば、国を捨てた国王のように孤独に生きたほうがいい。林の中の像のように気高く。」となる。

仕事のパートナー、友人、知人、恋人。

私は相手に求めることをたくさんする。

相手に求めて、自分にも課し、そして切磋琢磨することでお互いの成長が続けられると思っている。

人と会い、その人との会話や状況が心地良すぎるときは、なんだかお互い会う時間を作ることにもしかして無駄があるのではないのかと感じる。

お互い刺激しあえる相手だと、会話を考え言葉を選び、共有しあえることを見つける、そしてお互いの人生にプラスにはたらく関係というのが、長く関係を続けられる「伴侶」の姿だと思う。

その根底には、尊敬やいたわり、優しさが存在し、お互い聡明であり続けなければいけない。

私はいま、自分で感じるところ、公私共に「林の中の像のように」なる必要はないようだ。

あらためて、よろしくお願いしますと伴侶に伝えたい。

2010年6月22日火曜日

とある向い合ってたつラーメン店の比較日記

私が住んでいるところの付近には大きなバイパスがはしっており、ありがちなちょっとしたラーメン街道になっている。(本当にミニマムだが)

その中でも突出して人気の高いラーメン店があり、時間帯によっては店前に長蛇の列をなしていることが多々ある。

私は、婚約前の一緒に住んでいる彼女が居る。
その彼女も私も夜に小腹がすきラーメンを食べることを結構得意とする。

そのようなこともあり、しばしばその近所の人気ラーメン店に彼女と食べに行っている。

味は飛び抜けて美味しいというわけでもないのだが、なぜだか通ってしまうのだ。

何度かそのラーメン店に足を運んでいるうちに、厨房の中、スタッフの表情や会話を注視するようになった。
厨房のなかはラーメン店にしては至極清潔で、スタッフはいつもニコニコしている、これが人気店の所以なのだと確信した。

そんなことを繰り返しているうちに私たちはすっかりこのラーメン店のファンになったのだ。私たちはラーメンの味だけを好んで行っているわけではなく、このラーメン店の「ファン」になったから通っているのだ。

ファンになった私たちは、頼まれていないのに食べ終えたラーメン鉢を、スタッフが片付けやすいようにカウンターの上に上げている。気持ちよく食事ができてありがとうという感謝の意といいますか。
たまに布巾で拭いたりもする。


そんな中、昨日、仕事帰りにそのラーメン店に行こうとしたのだが、残念なことに昨日は定休日だったのだ。

仕方がないからおとなしく家に帰ろうとならないのが私たちで、人気ラーメン店の向かい側にたつラーメン店に行こうということになった。

初めて入るラーメン店で広さはその人気店の倍以上有り、一見例の人気ラーメン店と熾烈な戦いが繰り広げられているとさえ思っていたから、ある程度の期待値が私達にはあった。

しかし期待を裏切られることが、店内に入ってすぐに訪れる。
洗面所との隔たりに掛かるのれんが黒くなっている。厨房内は雑然としており不潔感さえただよう。スタッフのかたは無愛想で、食べ終えたラーメン鉢を下げその手で新しいラーメンのトッピング盛りに勤しむ姿。
おいおいそりゃないだろう。ふたりの落ちた表情。

あきらめ感の充満した私達の間で、虚しくすするラーメンの音が何だか悲しい。

早く食べて帰ろう、、そんなことを考えながらふと視線をあげたときカウンターに貼られたテプラのシールが飛び込んできた。
「食べ終えたら鉢をカウンタの上において帰ってね!」

なんでやねん!

2010年6月19日土曜日

ブブゼラ大半が実は中国製

中国のたくましさ、したたかさを感じないだろうか。

日本のGDPを近い将来抜いてしまうだろう中国の原動力たるものの本質が垣間見られる。


広東省にある玩具メーカーは昨年の六月ころより、来るべき翌年のワールドカップをみこしてこの民族楽器を生産していたのだという。

ことの始まりは六年前に、とあるプラスチックメーカーの経営者が南アフリカのサボーターが吹いていたこの楽器に目を付けたのが始まりだという。
そして、製品化にむけて、サッカーのTV中継をみながら「あーでもないこーでもない」と試作を重ね、見よう見まねで完成を迎えたのだという。


そして、2010年の南アWに照準を合わせて生産量を上げ今では需要に追いつかないほどの注文を受けているというのだという。

恥ずかしながら私がブブゼラを知ったのは昨年の末頃のとあるスポーツ番組だったと記憶している。
その玩具メーカーは六年前より、ブブゼラというトレンドの到来を先読みしていたわけだ。しかも見よう見まねで世界シェアを取ってしまったのだ。

中国人の貪欲さ、具現化する勢いとたくましさをすごく感じた。

冒頭にも書いたが、近い将来GDP世界二位の日本は中国に抜かれることが必然とされている今日。アジアの金融ハブもシンガポールや上海、香港などに奪われ、企業のアジア支社も急速に日本離れが進み、先日の日経新聞の調べでも顕著に数字に現れていた。

調べによると、日本に拠点を置くことに魅力がないと、在日外資企業からのアンケートではっきりと突きつけられていた。

法人税は先進国と比べても甚だしく高く、何か物事を起こそうとしても既得権益を守る愚かな圧力が多分に存在する今の日本では、世界だけでなくアジアの周辺国に遅れを取るばかりだ。


そんな中のブブゼラの記事だが、一見ばかばかしく思うことも愚直なくらい取り組み、それを取り巻く環境(株主・関係団体・金融・自治体・政府)もバックアップする体制を、日本でも取り戻さないといけない。

そういえば「コーポレートブランド経営」の冒頭に書かれていたことが印象的だった。
80年代の日本が経済で世界を圧巻したとき、実は周回遅れにされていたアメリカを追い抜いて一周差を縮めたに過ぎなかった。けれども「日本」は気づかずおごり、いまやまたしても周回遅れにされたアメリカの背中が見えない状況にある。


話を戻して、モノマネモノマネと揶揄されがちの中国だが、愚直なくらい「ものづくり」に取り組む気持ちまでも、もはや日本は追い抜かれてしまったのではないかと少し大袈裟かもしれないが思ってしまった。(モノマネ
は、ルールの範疇でビジネスを営まないといけないというのはもちろんの前提で)

ばかばかしく思えることも愚直に企画を起こし、取り組み、そして具現化する気持ちを大事にしなければいけない。
なんだかそう思った週末だった。

2010年6月17日木曜日

久しぶりの自宅での食事


私は仕事柄か自分の好きなこととしているのか、本当に外食が多く自宅で食事をするのは月に数回程度だ。
外食となると当然食生活は偏り、偏食の連続を体に強いている。
よくない。

昨日は久しぶりに自宅で食事(ちゃんとつくったものとして)をとった。
献立は肉じゃがとさんまの開き、しめじの味噌汁。
さんまの開きはひと月前に購入して、長い冷凍保存を経ていたので、少し冷凍焼けしていたのは残念だったが、味を楽しみ胃を休めるのには十分だった。

さて、その開きものとは干物保存食。
いまでは物流技術、保存技術の革新のおかげで年中季節物といわれるものも、容易に口にすることができる。
先人は到来する食品の旬を待ち遠しく思いながら、あらゆる知識と経験の結晶の保存食を口にしていたのだろうか。

昔、父親が「何でも手の込んだものは美味しいに決まっている」と私に話したことがあった。
いまでは、私の座右の銘とまではいかないが、美味しいものを食すと時折その言葉を思い出す。

開きものもそうで、手を込んで作っているだけあって、美味しいものは本当に美味しい。
独特の風味と、表面と中身の硬さのコントラスト、絶妙な味合い。
もしかしたらお造りより好物かもしれない。

そんなことを思った昨晩の食卓。

結局胃を休めるつもりが腹十分でお腹いっぱい。
ごちそうさまでした。